20世紀最大の画家の巨匠ピカソ。
彼の作品数は4万5000点とも言われています。凄まじい創作意欲とともに変化し続けた彼の作風を理解するには、その人物像を知らなくてはなりません。
ピカソが愛した女性は7人。そのうち2人は自殺!
3人の女性との間に子どもは4人。91歳没。
しかも、付き合う女性が変わるたびに、作風も変わっていったのです。稀代のプレイボーイか、変人か?
まず人物を簡単に説明しておきましょう。
変人ピカソは稀代のプレイボーイ?
パブロ・ピカソ
パブロ・ピカソは1981年、スペインに誕生しました。
地元の小さな美術館の館長をしていた父の影響で絵を描き始めます。子どもの頃は緻密な絵やデッサンを描き、子どもらしからぬ優れた写実的な絵だったようです。
その頃から天才の片鱗を見せていました。
ピカソは20歳を前にパリに渡ります。
多くの芸術家の集まる大都会パリは、10代の青年ピカソの好奇心を刺激したことでしょう。ロートレックの影響を受け、この年に芸術雑誌を自ら創刊しましたが、それは失敗に終わりました。
親友の死、恋人やアフリカ彫刻との出会い
親友を自殺で失い、悲しみの中でもピカソは絵を描き続けます。
パリで新しい恋人ができ、原始的なアフリカ彫刻に出会います。
この間の10年弱でピカソの作風は目まぐるしく変化しています。
良い出来事にも悪い出来事にも、ピカソは引き込まれやすい性格で、それらを素直に作品に取り入れる感性を持っていたのかもしれません。
変人ピカソ、愛した女性は7人
ピカソが愛した女性は7人です。しかも、付き合う相手によって、画風が変わっていきましたね。詳しくみていきましょう。
<ピカソが愛した女性7人>
・フェルナンド・オリヴィエ
フェルナンド・オリヴィエ
フェルナンド・オリヴィエの肖像
最初の恋人はフェルナンド・オリヴィエ。彼女との出会いは、ある夏の夕方でした。
彼女は激しい夕立に遭い、ピカソのアパートの軒先に飛び込んだのです。そこでピカソは自分が抱いていた子猫を手渡し、自分の部屋へ誘います。
彼女は人妻でした!
このときのピカソは、まだ絵が売れておらず、貧しい生活をしていました。
この時代に描かれた絵を「青の時代」と呼びます。
フェルナンドと巡り合ったピカソは、彼女との甘い生活で、画風が明るく優しくなり「バラ色の時代」へと移っていきます。
そして開いた個展が成功し、才能が世間に認められるようになります。
しかし、フェルナンドの友人エヴァに手を出して、2人の仲は7年で終わりを告げました。
・エヴァ・グエル
エヴァ・グエル
ピカソはエヴァ・グエルと付き合い始めます。
当時最先端だった「キュビスム」という手法で彼女を描いています。
こともあろうにピカソは、オリヴィエの親友だったエヴァ・グエルに手を出し、エヴァもピカソを受け入れて、キュビスムの時代が始まるわけです。
しかし、病弱だったエヴァは、ほどなくして病死。
最初の妻オルガ、彼女の一言で作風を変えた
・オルガ・コクローヴァ
オルガ・コクローヴァ
ソファに座るオルガの肖像
ピカソはやがて最初の妻となるオルガ・コクローヴァと出会います。3人目の恋人ですね。
彼女から「私を描くときは、私とわかるように描くこと」と言われ、突然、作風を変えてしまうのです。なんという変わり身の早さでしょう。
オルガは、ロシア貴族の血を引くバレエダンサーでした。
この時代のピカソの絵は「新古典主義」といわれる画風で、ギリシャ彫刻のようでした。
オルガと結婚して、子どもを授かりますが、子どもが生まれた頃からピカソの気持ちは徐々に彼女から離れていくのです。
ピカソは財産の半分をオルガに慰謝料として渡すのを嫌がり、離婚はできませんでした。
1955年、オルガは癌で亡くなりましたが……。
・マリー・テレーズ
マリー・テレーズ
「夢」1932年 モデルはマリー・テレーズ
妻オルガと次第にうまくいかなくなったピカソは、46歳のとき、17歳のマリー・テレーズを愛人にしました。4人目の恋人、愛人です。
マリーとの出会いは、彼女がデパートの前で人を待っていたときに、ピカソがいきなり「君の肖像画を描かせてください。私はピカソです」と声をかけたのがきっかけでした。要はナンパです。プレイボーイの片鱗が窺えますね。
「君の絵が描きたい。私はピカソだ」
そんな口説き文句で17歳の美少女を口説き落とせるほど、その頃のピカソは成功していたということでしょう。
ピカソはマリーを「完璧な顔と体」とたたえ、彼女の全身の美しさの虜になり、また画風が変わります。
8年後マリーは妊娠し、ピカソは妻オルガのもとを離れ、彼女と暮らし始めます。ところが、母となったとたんにマリーへの興味は一気に失せてしまうのです。
彼女は後に自殺しています…。
ピカソがなくなったとき、「死後もピカソを守らなければならない」と、命を絶ったということですが……。
・ドラ・マール
ドラ・マール
有名な「泣く女」1937年 モデルはドラ・マール
ピカソの代表作〈泣く女〉のモデルにもなった、写真家で画家のドラ・マール。
5人目の恋人です。
ピカソは才気あふれる内面に刺激を受け、彼女をモデルとして描きました。
ピカソも彼女のことを「よく泣く」と言ったそうで、そこからこの絵〈泣く女〉が生まれたのでしょう。
ピカソとの破局後は、精神病院に入院しています……。
・フランソワーズ・ジロー
フランソワーズ・ジロー
63歳のピカソがドラ・マールの次に愛人にしたのは、21歳の画学生フランソワーズ・ジローでした。6人目です。
ピカソは彼女のことを「人間は誰でも動物に似ているものだが、君は違う。植物だ」と言い、彼女の穏やかさを表現しました。
フランソワーズは、ピカソとの間に一男一女をもうけましたが、ピカソの女性関係(妻オルガ、愛人のマリー、ドラはこのときには身を引いていた)に嫌気がさし、子どもを連れて出て行ってしまいます。
フランソワーズの別れのセリフ「あなたのような歴史的記念碑とは、もうこれ以上生活を共にしたくない」は、当時名台詞として話題になったようです。
このときピカソは72歳、今まで女性に振られたことがなかったので、初めての失恋。大きなショックを受け、南フランスの古城を買い取り、引きこもります。
変人ピカソ、愛した女性のうち2人が自殺!2番目の妻ジャクリーヌはピカソの死後、13年後に自殺!
・ジャクリーヌ・ロック
腕を組むジャクリーヌ、1953年
そんな引きこもりのピカソの身の回りの世話をしたのが、後に2番目の妻となるジャクリーヌ・ロックです。ピカソとはなんと45歳差!
ただ、子持ちのバツイチ。才色兼備な女性だったようですね。
彼女は、巨匠ピカソを訪ねて、世界中から押しかけてくる画商やジャーナリストたちを追い払い、アトリエで制作するピカソを守る「門番」でした。
結婚生活は8年。
ピカソは彼女を母親代わりに甘えきっていたそうですが、1973年4月ピカソの死後、1986年、13年も経って孤独に耐えられず彼女はピカソの墓の前で自殺しています。
ピカソをとことん愛していたのでしょうか?
結局、ピカソは1人の女性を愛することはなく、所帯じみた生活を嫌ったのでしょうか。それにしても、女性たちは悲しい結末を迎えています。
生粋のプレイボーイ、有名な「ゲルニカ」誕生秘話とは?
ピカソは生涯で2回結婚をして3人の女性との間に4人の子どもができました。
不惑を過ぎた46歳のとき、17歳だったマリー・テレーズと恋に落ちて結婚しています。マリーはピカソの精神的なサポートとなり、「ゲルニカ」の制作過程を写真に残しています。彼の旺盛な創作意欲を支えていたのは、性生活と女性への興味だったのかもしれません。英雄色を好むでしょうか?
有名な「ゲルニカ」について。
ゲルニカ
ピカソは祖国のスペインで爆撃されたゲルニカという村の悲劇を知り、非常にショックを受けました。あまりのショックでしばらく作品の制作ができなかったほど。でも、怒りを燃やし、人民の叫びをキャンバスに焼きつけるために「ゲルニカ」を制作しました。
この「ゲルニカ」を制作中のアトリエで、マリー・テレーズとドラ・マールが鉢合わせました。すぐに口論や小突き合いの喧嘩となったのです。
そこでピカソが言い放った言葉が――
「2人で決着をつけて」だったそうです。
2人はその言葉の通り、取っ組み合いの喧嘩を始めたのです。
ピカソの取り合いか?
その様子や表情を描きとめたのが「ゲルニカ」です。
のちにピカソは、「最高に楽しい思い出」と語っていたそうです
最低ですね!いや、これぞプレイボーイ?
いやはや、反戦がテーマではなかったのか?
真実は恐ろしいですね!
この取っ組み合いの喧嘩の果てに、失意のうちにピカソの元から去ったのはドラ・マールでした。残ったのはマリー・テレーズ。しかし、マリー・テレーズからもピカソの心は離れていくのです。
ピカソが愛した女性のうち、ジャクリーヌ・ロックとマリー・テレーズは自殺しています。
なぜ2人も自殺したのでしょう?
「君は、そんな平凡な女じゃないだろう?僕が選んだ特別な女性だから」
ピカソはそんな言葉をつぶやいていたそうですから、特別な女性として自ら死を選んだのかもしれません。
まとめ
ピカソのあの変な絵には、女性の影が常にちらつきます。旺盛な創作意欲を駆り立てていたのは、ピカソが愛した7人の女性がいたからでしょうか。
やはりピカソは限りなく面白いです!
興味ある方、ゴッホの記事もぜひ読んで下さいね。凄い生涯です!
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