皆さま、こんにちは。
まんじろうです。
今回は朝ドラ「らんまん」のモデル、牧野富太郎の子だくさんの話です。「らんまん」では東京編となり、将来の妻になる寿恵子(女優は浜辺美波さん)との恋愛物語が放映されていますね。ドラマでの寿恵子はすごく可愛いし、実際、本当の妻もこんな女性だったのかもしれません。
牧野富太郎、妻の寿衛子(壽衛)に13人の子ども、うち6人が死亡
牧野富太郎が、菓子屋を営む小澤寿衛子(壽衛)と出会ったのは、彼女が13歳くらいのとき。2人は明治21年に結婚していますから、富太郎が26歳、寿衛子(壽衛)が15歳のときですね。
以来、13人の子どもを産みましたが、残念ながら6人は亡くなりました。その内7人(3男4女)が成長しています。
長女:香代
次女:鶴代
長男:春世
次男:百世
三男:勝世
三女:己代
四女:玉代
ちなみに寿衛子(壽衛)は明治6年(1873年)生まれ。昭和3年(1928年)1月。2人の家ができてまもなく彼女は入院。その1か月後、亡くなりました。享年55歳。
牧野富太郎、なぜ多くの子どもを欲したのか?
さて、それにしても、13人の子どもって、多くないですか。なぜそんなに子どもを欲したのでしょうか。
それを紐解くには、牧野富太郎の結婚観を知らないといけませんね。
朝井まかて著『ボタニカ』では、こんなセリフがあります。
スエの母親が富太郎に出産を確認するシーン。
「よろしゅうござんすね。産ませても」
「むろん」「子孫を生すは、生きとし生けるものの根源たる営みですき。花が雄蕊(おしべ)と雌蕊(めしべ)を持っちょるのも、ただただわが命を次代につなぐため。風や蝶、動物の力をうまいこと借りて結実させるがです。まっこと、植物の生きようはうまいことできちょります」
「草木じゃなくって、人間の話をしてんですけどね」
富太郎の結婚観は、植物の生きようと重なっているようです。
「らんまん」では、どのようにして2人が結ばれるのか。楽しみではありますね。
もうひとつ、牧野富太郎著『植物知識』(講談社学術文庫)の前書きに、こんな一文があります。
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「花は、率直に言えば生殖器である」
「動物の醜い生殖器とは雲泥の差があり…」
植物と動物の生殖器を書いているのですが、なんともすごい表現でしょう。
それから、結婚した以上は、子どもをつくること。子を生さないのは、その義務を怠っていて、それは「人間社会の反逆者であって、独身者はこれに属するといっても、あえて差し支えはあるまいと思う」とも、書いています。
牧野富太郎、人間も植物も同じで子だくさんは子孫繁栄のため?
彼が植物の研究をする中で、子孫を残す、ということに関して、人間も植物と同じように、絶え間なく子孫繁栄のために、繁殖活動を行うべし、と考えていたようにも感じます。
植物を研究する中で育んだ思想が、こういう考え方になったのかもしれません。
だからたくさんの子どもが欲しかったのでしょうか。
牧野富太郎は貧乏生活を送っていたし、研究生活で多忙だったはずなのに、なぜ子だくさんなのか。筆者は不思議に思っていましたが、なんとなく謎は解けました。
ちなみに、明治中期の平均出産人数は5.8人だったそうですから、かなり多いことが分かります。
明治時代の出産について調べてみますと、当時は6人の子どもがわりと普通で、子だくさんは当たり前だったようですね。
牧野富太郎、子供6人の死亡は珍しいことではない
10人産んだ人などの報告もあります。ただ同時に死産や栄養不足などで赤子が死亡するケースもやはり多かったようです。だから6人が亡くなっているのも、とくに問題があるわけではなさそうです。
何しろ明治時代は産婆さんや近所の女性たちの力を借りての自宅出産が一般的でした。
昭和に入って病院で出産する場合もあって、昭和25年ごろは産院や病院で出産する人が増えたらしいです。
話は変わりますが、日本で最も多くの子どもを持ったのは、江戸後期の将軍、徳川家斉の53人(男女合わせて)と言われています。
無類の子だくさんとして知られていますが、正妻のほか、側室が24人もいました。幕府存続の責務を背負っていたため、要は世継ぎですね。それでたくさん産ませたのです。
それでも、成人したのは26人、残りはいずれも死亡しています。
牧野富太郎の場合は、一人の女性に13人ですから、やはり多いです。
その理由は、貧乏であっても、子孫繁栄を願ったのかもしれませんね。
まとめ
今回は筆者が疑問だった、牧野富太郎はなぜ多くの子どもを妻に産ませたのか、ということを掘り下げてみました。なんとなくわかったような気がします。
最後まで読んで下さり、ありがとうございました。
興味ある方は、以下の記事も読んでくださいね。よくわかると思います。
関連記事:牧野富太郎の2人の妻、前妻の存在はなぜ隠されたのか?
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