牧野富太郎、貧乏、借金まみれ、子供13人、結婚2回、その生涯とは?

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連続テレビ小説「らんまん」の主人公・槙野万太郎のモデルとなっているのは、日本植物分類学の父とも呼ばれている牧野富太郎です。ドラマ化になるほどの有名人ですが、いったいどんな生涯を送ったのでしょうか。ちょっと調べてみました。

牧野富太郎は、貧困、借金まみれで、子供13人(うち6人死亡)、さらに結婚も2回。そんな諸々のことがわかりました。

もちろん生涯、名もなき植物を探し続けた著名な愛すべき人物でしょう。

まずプロフィールをご紹介しておきましょう。

植物学者 牧野富太郎博士(1862-1957)
牧野富太郎博士は、現在の高知県高岡郡佐川町に生まれました。高知の豊かな自然に育まれ、幼少から植物に興味を持ち、独学で植物の知識を身につけていきました。

2度目の上京のとき、東京大学理学部植物学教室への出入りを許され、植物分類学の研究に打ち込むようになります。自ら創刊に携わった「植物学雑誌」に、新種ヤマトグサを発表し、日本人として国内で初めて新種に学名をつけました。

94年の生涯において収集した標本は約40万枚といわれ、蔵書は約4万5千冊を数えます。新種や新品種など約1500種類以上の植物を命名し、日本植物分類学の基礎を築いた一人として知られています。

現在でも研究者や愛好家の必携の書である「牧野日本植物図鑑」を刊行。全国からの要望に応じて各地を巡り、植物を知ることの大切さを一般に広く伝え、植物知識の普及にも尽力しました。

1953年東京都名誉都民。1957年文化勲章受章。

(出典:高知県立牧野植物園)

牧野富太郎は酒造業を営む裕福な商家の長男として誕生

出典:高知県立牧野植物園インスタグラム

さらに詳しく紹介していきます。

牧野富太郎は、幕末の文久2(1862)年に高知県高岡郡佐川村(現佐川町)の酒造業を営む裕福な商家に長男として生まれました。
何不自由なく暮らしていましたが、幼小の頃に両親と祖父を相次いで亡くし、祖母の手ひとつで育てられました。ひとり草木と遊ぶのが好きな子どもでした。

26歳のとき、かねてから構想していた『日本植物志図篇』の刊行を自費で始めました。
工場に出向いて印刷技術を学び、絵は自分で描いたのです。

この時期、牧野は東京と郷里を往復しながら研究者の地位を確立していきますが、研究費を湯水の如く使ったこともあり実家の経営も傾いていきました。

31歳で、東京帝国大学理科大学の主任教授となった松村に呼び戻される形で助手に。
そのときには生家は完全に没落していました。助手の月給で一家を養っていましたが、文献購入費などの研究に必要な資金には事欠く始末。それでも、研究のために必要と思った書籍は非常に高価なものでも全て購入していたため多額の借金をつくり、ついには家賃が払えず、家財道具一切を競売にかけられたこともあると言います。

牧野富太郎は2人目の妻・小澤寿衛子との間に13人の子どもをもうけたが、6人が死亡

牧野富太郎は2人目の妻・小澤寿衛子との間に13人の子供をもうけ、そのうち7人が育ちました。6人が生後まもなく、亡くなってしまったようです。
これだけの子どもを養うために、家計は火の車だったようですね。

なお、牧野富太郎の妻は、寿衛子が知られていますが、実はその前に最初の妻がいました。
牧野猶という女性です。
彼女は牧野富太郎の従妹で、実家の造り酒屋を手伝っていました。
富太郎と猶がいつ頃結婚したのか、正確にはわかりません。
富太郎にとっては望まない結婚だったため、すぐに離婚したという話もあります。
この牧野猶という女性は富太郎の史実にほとんど登場しません。

牧野富太郎は植物研究に心血を注ぐあまり、大貧乏、莫大な借金生活

話をもどします。
牧野富太郎は植物研究にのめり込むあまり、大貧乏で、莫大な借金を背負います。
学界との軋轢などもあって、幾度となく困難に見舞われています。
それでも、研究への情熱は尽きず、「何とかなるろう」と平然とやり過ごすのです。
今度こそ絶体絶命というピンチにはなぜかどこからかサポーターが現れて窮地を救われます。
そんな愛すべき天才の原点は、何なのでしょう。

どうやらそれは土佐のいごっそう気質にあるようです。

高知では「土佐のいごっそう」とよく言われます。
いごっそうというのは、「異骨相」と書きますが、頑固、気骨のある、一途なといった気質を意味する土佐弁です。

牧野富太郎は裕福な造り酒屋の息子でありながら、お酒が飲めず、大の甘党です。

高知は酒文化です。「ベク杯」といって、下に置くことができない酒器があります。容器を常に持った状態で酒をついでもらい、飲み干すまで置けません。おちょこにも穴が開いてます。
いわば、飲み始めたら徹底的に飲む。そのノリが土佐の文化。やり始めたら夢中になって、行きつくところまで行ってしまう。
どうやら牧野富太郎という人も、お酒は飲めなくても、植物学という学問に泥酔した人間ということ。

坂本龍馬にしても、世界を見据えて自分の道を突き進んでいく情熱は、生涯衰えませんでした。よく似ていますね。土佐のいごっそう気質でしょうか。

牧野富太郎は借金まみれ、子だくさんでも「何とかなるろう」

裕福だった牧野家の実家が傾いてからは、壮絶な貧乏時代に突入しました。常に借金取りに追われ、家賃が払えず引っ越したのが30回以上と言われ、子どもたちにお弁当も持たせてやれない。それでも妻の寿衛子さんは苦境も厭わず、富太郎を支え続けたそうです。

土佐弁で、「何とかなるろう」と言います。関西弁で言うと「何とかなるやろう」。実際、牧野は何があっても飄々として「何とかなるろう」で乗り切ってきたわけです。

牧野富太郎、波乱に満ちた生涯、94歳で永眠

昭和29年(1954)92歳、風邪をこじらせ肺炎となり病臥する。
昭和30年(1955)93歳、東京植物同好会が牧野植物同好会として再開する。
昭和31年(1956)94歳、高知県高知市五台山に牧野植物園設立決定。佐川町名誉町民となる。病状が悪化し重体となる。昭和天皇よりお見舞いのアイスクリームが届く。
昭和32年(1957)94歳9か月、1月18日永眠。
東京都谷中の天王寺墓地に埋葬。没後、文化勲章を授与される。
昭和33年(1958)高知県立牧野植物園開園。東京都立大学理学部牧野標本館開館。練馬区牧野記念庭園開園。

まとめ

日本の偉人はやはり素晴らしい。どこかで挫折してしまいそうですが、決してそうはならない。大往生の人生と言えましょう。長生きできたのは、トマトを毎日食べていたからだそうですが……。

最後まで読んで下さり、ありがとうございました。

 

参考資料:「日本植物学の父」は、土佐の優しきいごっそう

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