女性初の弁護士誕生(三淵嘉子)は昭和15年、どんな時代背景だった?

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皆さま、こんにちは(こんばんは)。
本日は女性初の弁護士三淵嘉子)のお話。
朝ドラ「虎に翼」のモデルです。
昭和15年(1940年)に日本で初めての女性弁護士が3人誕生しましたが、
そのうちの1人が三淵嘉子です。

昭和15年。
男尊女卑が当たり前の時代です。
三淵嘉子はその後、裁判官になり、家庭裁判所の設立にもかかわり、女性初の家庭裁判所の所長にもなります。
「女性初の弁護士」「女性初の判事」「女性初の裁判所長」と称されていますね。

今では女性弁護士は珍しくありませんが、昭和15年の時代背景を知らなければ、女性初と言われても、ぴんときませんよね。
そこでどんな時代だったのか、ひも解いていきましょう。

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女性初の弁護士誕生は昭和15年

参考文献:メディアソフト

三淵嘉子が司法科試験に合格したのは1938年(昭和13年)。24歳のとき久米愛、田中正子とともに女性初の合格者に。

翌年、弁護士試補として修習。
この年、第二次世界大戦開戦。

1940年(昭和15年)7月、25歳のとき、明治大学専門部女子部法科助手に。
同じく1940年の12月、26歳で第二東京弁護士会に弁護士登録、初の女性弁護士になりました。

この年、日独伊三国同盟。
1941年(昭和16年)には、太平洋戦争開戦により、日本は第二次世界大戦に参戦。

こんな時代ですから、女性は家庭に入るのが当時の常識。女性が職業を持つことは教師などの限られた専門職をのぞき、なにか「訳アリ」と思われていました。

女性の社会進出が少しずつ出始めた頃とは言え、一般的には法律家を目指すなんて論外だったのです。

ただ、彼女の父は「民主的な思想を待った人」だったようで、嘉子に法律の道を進めたと言います。

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昭和15年(1940年)はどんな時代背景だったのか?

この頃、ますます戦時色が色濃くなりました。
1月、調理用及び医療用以外の暖房電熱器、家庭用電気冷蔵庫、電気風呂などの電気器具の使用が禁止。

3月、名古屋でマッチの配給が始まり、高知でも米の配給が始まりました。
その後全国に。

また、内務省はカタカナ名の芸能人に改名するように指示を出しました。
理由は、皇室や神社の尊厳を汚す惧れがあること、外国人崇拝を促し、社会に不安を与えることなどが理由のようです。
ディックミネ、ミス・ワカナ、ミス・コロムビアなど16名が槍玉にあげられ、改名を余儀なくされました。

これ以降も、カタカナや英語が禁止されました。

5月、修学旅行が禁止。
マッチの切符制に続き、砂糖も切符制となりました。

7月、《七.七ぜいたく禁止令》が発令。
正式には奢侈品等製造販売制限規則と言い、西陣織などの豪華な着物地や羽織地、首飾りや耳飾り、ダイヤやルビー、金銀品や象牙製品の製造が禁止されました。

8月、東京市内に《ぜいたくは敵だ》という立看板が1500本も設置され、《ぜいたく監視隊》なども登場しました。

10月、《国民服令》が発せられ、日本国民男子の標準服装が定められます。

ちなみに、昭和14年4月には零式艦上戦闘機、いわゆる零戦(ゼロ戦)が初飛行しています。

そんな時代背景だったのです。

日本の弁護士法は、明治26年の施行で、有資格者は「男子タルコト」と男子に限られていました。
女性にも弁護士の資格が認められるようになったのは昭和11年。

それでも、法律を学ぶ女性は世間からは白い目で見られ、自立できる保証もなく、「嫁のもらい手がなくなる」と揶揄されていた時代でした。

女性初の弁護士がいかに凄いことか、わかりますね。

そして日本は第二次世界大戦に参戦していくのです。

まとめ

調べてみると、とんでもない時代に日本初の女性弁護士が誕生したのですね。このあたり、朝ドラでもしっかり見ていきたいと思います。朝ドラは長丁場ですけど。

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