牧野富太郎とその時代の人々 昭和天皇など様々な人と交流があった!

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牧野富太郎(1862年~1957年)。文久2年~昭和32年
94歳没。

今や朝ドラ「らんまん」ですっかり有名人です。
ただ、研究にのめり込むあまり、苦労の多かった人生でもあると言えますね。
1862年に土佐国高岡郡佐川村に生まれました。
1888年、妻の壽衛と結婚、26歳のときです。1928年、妻が死去したとき、新種のササに「スエコザサ」と命名しています。
江戸、明治、大正、昭和を生き抜いた牧野富太郎。そしてその同じ時代、牧野はどんな人たちと交流していたのでしょうか。

今回はそれらをまとめてみました。

牧野富太郎は昭和天皇などさまざまな人と交流した

海外では、牧野富太郎が27歳のときにパリ万国博覧会開催。50歳のときにはタイタニック号が沈没しています。
牧野は海外の人たちとも交流がありましたし、植物研究では海外にも知られていたのですね。

牧野博士の胸像とスエコザサ 出典:牧野記念庭園HP

それでは、じっくりと見ていきましょう。

昭和天皇】1901~1989年(明治34~昭和64)

牧野が94歳で病に倒れたとき、昭和天皇からお見舞いのアイスクリームが届けられたそうです。
筆者は、随分と深い交流がおありだったのだな、と思いましたね。

調べてみると、牧野富太郎と昭和天皇との交流は、昭和天皇が制作した標本を牧野が鑑定したのが始まりだそうです。

このときの標本は昭和記念筑波研究資料館に今も残されていると言います。

ちなみに1948年(昭和23年)に牧野を皇室に招き、植物学の新講を受けたとされています。「名無し草という植物は一本もない」という言葉に影響を受けられたようです。

寺田寅彦】1878~1935年(明治11~昭和10)

出典:NHK

寺田寅彦は物理学者、随筆でも活躍した人物です。高知県出身ですから、牧野とは同郷です。明治31年に夏目漱石を主宰とした俳句結社を起こすなど、俳人としても活躍しました。

高知市にある寺田記念館の石碑の文字は牧野の筆によるもの。
交流が深かったのでしょう。

2人の随筆の中には、それぞれの名前が出てきますし、椿の花が仰向けに落ちる理由など、
互いに随筆の中でやりとりしているようですね。

 

森鴎外】1862~1922年(文久2~大正11)

森鴎外 出典:digistyle-kyoto.com

牧野と親交のあった文豪です。小説家、陸軍軍医、大学講師。

実は森鴎外というのは、作品に500種以上の草花を登場させるなど、植物好きなんですね。

たとえば、わからない植物があると、牧野に手紙を書いて尋ねたと言います。何しろ同い年。植物好き同士ですから、気があったのでしょうか。

牧野と同じ時代に生きていた文豪なんですね。

牧野富太郎は海外にも知られていた!

マキシモヴィッチ】1891~1927年(文政10~明治24)

マキシモヴィッチ

出典:umdb.um.tokyo.ac.jp

19世紀のロシアの植物学者。

日本では当時、植物研究者は独学で学名を定められず、標本をマキシモヴィッチに送り、鑑定を仰いでいました。
牧野も鑑定を依頼した一人。牧野から送られてくる標本は珍しい物が多く、評価していたと言われていますね。

出典:kosho.or.jp

牧野はロシアに渡りたいと言っていたそうですが、牧野が渡露の前に逝去してしまいました。
遅れていた日本の植物学発展に貢献した人物です。

 

池長孟】1891~1955年(明治24~昭和30)

出典:ナガジン!www.city.nagasaki.lg.jp

美術品収集家。

生活に困窮した牧野に手を差し伸べたことでも知られています。
市立神戸美術館(現・神戸市立博物館)の前身となる池長美術館の創立者。
京都大学に在学中、牧野が所有する約10万点の標本を約3万円(現在の価格で2200万円以上と言われる)で購入、牧野を援助しました。

1918年(大正7)に池長植物研究所を開館。図書館も創設。牧野から買い取った書籍や自らが収集した書籍も多かったようですが、牧野の標本整理が進まず、一般公開されないまま、閉館となったようです。

まとめ

ほかにも、さまざまな人たちと交流をしていますが、今回は主だった人物を取り上げてみました。
援助してくれる人がいたのも、牧野の魅力なのでしょう。やはり歴史に名を遺す人は違いますね。

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