皆さま、こんにちは(こんばんは)
まんじろうです。
朝ドラ「らんまん」がおもしろいですね。
ドラマでは、かわいい子供に恵まれ、一方で、浜辺三波さん演じる寿恵子が借金取りをうまくかわす様子が描かれています。
まあ、実際、借金まみれだったようですが、素晴らしい奥様です。
しかし、若くして死んでしまいます。残された牧野富太郎は妻なき後、28年間をどのような生き方をしたのでしょうか。気になったので調べてみました。
牧野富太郎、妻が55歳で死亡し、残りの28年間をどう生きたのか?
牧野富太郎の妻、壽衛(すえ)さんが死去したのは昭和3年、55歳でした。
このとき、牧野は66歳。つまり残りの28年間、牧野は94歳まで一人で生きたことになりますね。もちろん子供はいましたけど。
妻亡き後、どのような人生を送ったのでしょう。
実家が傾き、大学を〝クビ〟になっても、研究に邁進。立身出世やお金には無頓着で、己が信じたことに忠実に生きた牧野。
両親が早くに亡くなり、友達もほとんどおらず、「孤独だった」と牧野は語っていますね。
植物をつぶさに観察し、対話をしたのは、そんな孤独感だったからかもしれません。
1928年(昭和3年)、妻の壽衛が死去し、新種のササにスエコザサと命名しました。
仙台で採取した新種のササですが、学名を「ササ・スエコヤナ」として世界に発表したと言います。
牧野富太郎、10年をかけて「牧野日本植物図鑑」を刊行
当時、大学で働いていたので、収入はありました。
その間、ひたすら研究を重ね、1940年(昭和15年)、「牧野日本植物図鑑」を刊行します。
東京帝国大学を退職した翌年です。
牧野は78歳です。この図鑑は、自身の植物研究の集大成、本書出版まで10年を要しています。
全国各地へ採集旅行をしたり、全国各地で講演会を行い、観察会も行い、植物知識を広め、教育普及活動に尽力しました。
この図鑑には3206の植物図が掲載されています。
これは一大プロジェクトでした。序文には25人もの協力者の名前が記されていますから。
しかも、初版本に満足できず、ずっと訂正をし続けたそうですよ。
子供たちには、書斎には入らないようにも言い伝えていたようですから、仕事を邪魔されることはなかったのでしょう。
牧野が暮らしていたのは東京・東大泉の家。
ここは標本館で、さらにはこの地に植物園をつくる夢を妻と描いていたようです。
でも、夢がかなうことはありませんでした。
自邸が完成して2年後に妻がなくなったからです。
ここに住み続けました。
ちなみにここの庭は「牧野記念庭園」となっていますね。
1953年(昭和28年)10月、東京都名誉都民となる。
1956年(昭和31年)高知県高知市五台山に牧野植物園設立決定。
6月、病状悪化。8月に危機を脱する。11月にふたたび重体に。
12月、高知県佐川町名誉市民となる。
牧野富太郎、90歳を過ぎても深夜1,2時まで研究に没頭
資料によると、牧野の睡眠時間は6,7時間。朝は8時に起床、寝るのは深夜1~2時だったらしいですよ。90歳を過ぎても、寝るのは深夜だったのです。
すごいです。それほど、研究熱心だったのです。
1957年1月18日永眠。
没後、従三位勲二等旭日重光章および文化勲章を授与されました。
亡くなる1年ほど前まで、牧野は野山を歩き回っていたというから、たいしたものです。
そんな生き方は真似のできるものではありませんね。
ひたすら研究に邁進した人生と言えます。
晩年はこうして過ごしたのですね。
まとめ
晩年も研究一筋。ただ、妻と暮らした自邸を離れることはなかったんですね。牧野記念庭園には子孫の方が働いていますから、子供さんたちとの関係はよかったのでしょう。
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