淡谷のり子の波乱人生とは?警察に反発し、歌に生きた「ブルースの女王」

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皆さま、こんにちは。
まんじろうです。
本日は、淡谷のり子さんを取り上げます。
有名なブルースの女王です。
朝ドラ「ブギウギ」では、菊地凛子が演じる茨田りつ子として登場していますが、
信念を貫くところが素晴らしいのです。
生家の没落の後、母と妹と着の身着のままで上京。
東京で「歌」という生きがいを見つけたものの、彼女もまた想像を絶する困難を乗り越え、
歌とともに生きた偉大な歌手でした。
笠置シヅ子とは異なるものでしたが、その波乱の人生とは?
それをひも解いていきましょう。

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淡谷のり子の波乱の人生とは?

淡谷のり子さんの人生もまた、笠置シズ子、服部良一とともに、ほんとに印象に残る人生と言えます。
朝ドラでも描かれていますが、彼女が活躍していた時代、警察の締め付けがだんだんきつくなってきたんですね。

「派手な化粧をやめないと今後の公演を差し止める」

警察にこう言われて、苦渋の末、トレードマークの長〜いつけまつ毛を短く切ってしまったのは、福来スズ子です。

対して、茨田さんは反応が違いましたね。

「冗談じゃない! 着飾って何が悪い! 私は、お客様に夢を見させる歌手よ。ぜいたく? 表舞台に立つ者にとって、これは当たり前の格好です!」

このセリフ、しびれますねえ。

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淡谷のり子はモンペを穿かない歌手、警察に反発!

実際の淡谷のり子さんも、モンペを拒否し、ドレスを身にまとい、禁止されていた洋楽やブルースを歌い続けた偉大な歌手だったわけです。
戦時中、日本国民はぜいたくをするな、歌手はドレスを着るな、洋楽を歌うななど、固く禁止されていました。大変な時代だったんですね。

そんな中、洋楽とドレスを「これが私の戦闘服だ」、「国のトップがそんなこまごましたことを言っていて戦争に勝てるか?!」と、決してモンペを着用しようとはしませんでした。

戦時中、軍や国に刃向かったら、大変な目に遭うというのに。

「これは私の戦闘服です。丸腰では戦えません。それは私に死ねって言うのとおんなじです」

淡谷さんは笠置シヅ子と同じく、警察当局にマークされていた、いわゆる“敵性歌手”だったんです。

そのエネルギッシュでパワフルなステージは時節にふさわしくないとして政府に目をつけられました。
1939年には警視庁から、丸の内の劇場への出禁を言い渡され、それでも、歌を歌うことはやめませんでした。

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淡谷のり子、古賀メロディーから「ブルースの女王」へ

生まれは明治40年(1907年)、生家は青森の豪商でしたが、3歳のとき、大火で没落。
大正2年(1923年)、母、妹とともに上京し、東洋音楽学校(現・東京音楽大学)を首席で卒業しました。

笠置シズ子は「ブギの女王」。
淡谷のり子は「ブルースの女王」です。
淡谷のり子さんの初ヒット曲は、古賀政男が作曲した「私此頃憂鬱よ」でした。
その後、タンゴ、シャンソンと洋楽志向を強めたのり子は、新進作曲家の服部良一と組んだ「別れのブルース」が話題に。100万枚を超える大ヒットとなったのです。
日中戦争が勃発した1937年(昭和12年)に発売した、この「別れのブルース」で一気にスターダムへ駆け上がったわけですね。

淡谷のり子、流行歌手になる前は貧乏のどん底でヌードモデルも経験

でも、流行歌手になる以前、淡谷のり子さんは貧乏のどん底にいました。
妹に失明の危機が迫り、音楽学校を休学してヌードモデルにもなりました。
また、淡谷さんは、結婚歴があります。
ただし、3年で結婚生活は終わっていますね。

笠置シヅ子さんには娘が1人いたが、父親はいませんでした。

淡谷のり子さんも娘が一人いますが、離婚後に出産されており、父親を公表していません。

1999年、老衰のため自宅で死去。享年92歳。

茨田りつ子(菊地凛子)が劇中で歌う「別れのブルース」「雨のブルース」を収録したシングルCDが発売!
今後ますます目が離せないドラマ展開に加え、茨田りつ子(菊地凛子)の艶やかで哀愁を帯びたその歌声をぜひ聴いておきたいもの。

いいですよ。

まとめ

歴史に名を残す人物というのは、やはり波乱に満ちた人生を歩んでいますね。
淡谷のり子さんもまた壮絶な人生だったんですね。
今後どうなるのか。
朝ドラの物語の展開にも注目でしょう。

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