皆さま、こんにちは(こんばんは)。
まんじろうです。
朝ドラ「らんまん」のモデル、牧野富太郎はなぜあれほどまでに植物学にのめり込んだのでしょうか。植物の研究はそんなにもおもしろいのか。筆者はずっと疑問でした。
昆虫の研究や魚の研究など、もっと楽しい研究はいくらでもありますが、それにしても不思議です。身近にある植物すべてが研究対象でしたね。
もちろん身近に植物がたくさんあったのはわかりますけど、それほど魅力的な研究だったのでしょうか。自らを「植物の愛人」とまで言っていますからね。
そこで今回は、その異常なほどの植物愛に迫ってみたいと思います。結論を先に言いますと、これが実におもしろいのです!(知らなかった~)。
牧野富太郎、「植物の愛人」と言うほどの異常な愛着
牧野富太郎は「日本の植物学の父」と言われています。多数の新種を発見し、命名も行った近代植物分類学の権威です。
その研究成果は50万点もの標本や観察記録、そして『牧野日本植物図鑑』に代表される多数の著作として残っています。旧制小学校中退でありながら理学博士の学位も得て、生まれた日は「植物学の日」に制定されています。
植物標本は個人的に所蔵していた分だけでも40万枚に及び、命名植物は1,500種類を数えると言われますね。いや~、すごいです。
そしてさまざまな著作から、なぜそれほどまでに研究にのめり込んだのか、それを紐解いていきましょう。
まず牧野博士は、「私は植物の愛人としてこの世に生まれてきたように感じます。あるいは草木の精かも知れんと自分で自分を疑います」(「植物と心中する男」より)と、自分で植物の愛人だと言っていますね。
おそらくこの表現は、日本人では初めてでしょう。というか、恥ずかしくてふつうは言えないのでは?
牧野富太郎、花は生殖器だと表現する異常さ?
もっとすごいのは、「植物知識」(講談社学術文庫)のまえがきです。
「花は、率直に言えば生殖器である。~~動物の醜い生殖器とは雲泥の差があり、とても比べものにはならない。そして見たところなんの醜悪なところは一点もこれなく、まったく美点に充ち満ちている」
「植物には種子が必要で、それは言わずと知れた子孫を継ぐ根源であるからである。」だと表現し、人間の子を生むのは草木と同様だと言っていますね。
「動物が子孫を継ぐべき子供のために、その全生涯を捧げていることは蝉の例でもよくわかる。暑い夏に鳴きつづけている蝉は雄蝉であって、一生懸命に雌蝉を呼んでいるのである。」
牧野博士がなぜ子作りに励んだのかは、別記事でまとめています。何しろ子供13人ですからね。(下記の関連記事を参照)
さて、植物研究です。なにがおもしろいのか。これについては、牧野博士の凄まじい知識から、なんとなくわかりますよ。
牧野富太郎、植物研究のおもしろさを綴る
たとえば、ヒガンバナ。
皆さんもご存じでしょう。秋の彼岸ごろに花が咲くのでヒガンバナと呼ばれています。一般的にはマンジュシャゲの名で通っています。
この名は梵語の曼珠沙(まんじゅしゃ)から来たものだといわれていますが、しかしインドにはこの草は生えていません。
「本種はわが邦いたるところに群生していて、真赤な花がたくさんに咲くのでことのほか著しく、だれでもよく知っている。毒草であるからだれもこれを愛植(あいしょく)している人はなく、いつまでも野の草であるばかりでなく、あのような美花を開くにもかかわらず、いつも人に忌み嫌われる傾向を持っている。」(「植物知識」より)
詳しい説明は割愛しますが、牧野博士はこうも綴っています。
「不思議なことには、かくも盛んに花が咲き誇るにかかわらず、いっこうに実を結ばないことである。何百何千の花の中には、たまに一つくらい結実してもよさそうなものだが、それが絶対にできなく、その花はただ無駄に咲いているにすぎない。
しかし実ができなくても、その繁殖にはあえて差しつかえがないのは、しあわせな草である。それは地中にある球根が、漸々(ぜんぜん)に分裂して多くの仔苗(しびょう)を作るからである。ゆえに、この草はいつも群集して生えている。それはもと一球根から二球根、三球根、しだいに多球根と分かれゆきて集っている結果である。」
とにかく、とことん研究したのでしょう。土佐のいごっそう気質の持ち主ですから、調べずにはいられないのでしょうね。
牧野富太郎、果物の記述には目からウロコ!
わかりやすいのは、果物の考察でしょう。まさに目からウロコですよ!
参考文献は「植物知識」です。
■まずはリンゴについて。
リンゴの果実は、その中央部に五室に分かれた部分があって、その各室内には二個ずつの褐色な種子が並んでいます。
すなわちこの区切りを堺として、その内部が真の果実であって、この果実部はあえてだれも食わなく捨てるところでしょう。
「この区切りと最外(さいがい)の外皮のところまでの間が人の食する部分であるが、この部分は実は本当の果実へ癒合(ゆごう)した付属物で、これは杯状をなした花托、すなわち花の梗の頂部であって、それが厚い肉部となっているのである。
これで見ると、このリンゴの実は本当の果実は食われなく、そしてただそのつきものの変形せる花托、すなわち花梗の末端を食っていることになるが、だれもその真相を知っているものはほとんどないであろう。」
この説明文を読む限り、我々はリンゴの本当の果実を食べているのではなく、そのつきものの変形の花梗の末端を食べているということです。
なんだそれ?
牧野博士、そうなんですか?
■続いてバナナについて
これも、おもしろいですよ。
「果実としてのバナナは元来そのいずれの部分を食しているかというと、実はその果実の皮を食しているので、これはけっして嘘の皮ではなく本当の皮である。
もしもバナナにこの多肉質をなした皮がなかったならば、バナナは果実としてなんの役にも立たないものである。幸いにも多肉質の皮が存しているために、これが賞味すべき好果実として登場しているのである」
なんともはや、牧野博士によれば、バナナの実は皮ということです。
■ミカンについて
ミカンも、筆者の知らないことが書かれていました。
「ミカンすなわち蜜柑は、食用果実として名高く且つ最もふつうのものであるが、世人はそのミカンの実のいずれの部分を味わっているのか知らぬ人が多いのであろう。
ミカンは、その毛の中の汁(しる)を味わっている、と聞かされるとみな驚いてしまうだろう。もし万一ミカンの実の中に毛が生えなかったならば、ミカンは食えぬ果実としてだれもそれを一顧もしなかったであろうが、幸いにも果中(かちゅう)に毛が生えたばっかりに、ここに上等果実として食用果実界に君臨しているのである。
イチゴについても、人々はその花托(かたく)すなわち茎の頂部、換言すればその茎を食しているのであって、本当の果実を食っているのではないと、言っています。
いやはや、驚きました。牧野富太郎著「植物知識」に書かれていることですが、研究すればするほど、のめり込んだ理由がわかろうというものです。
おそらく、名もなき草花にも、同じくらい研究を重ねたのでしょう。
まとめ
植物学は実はこれほどおもしろいものなのですね。
自らを「植物の愛人」とまで表現したのが、ほんの少しわかった気がしました。
こういう目線で見れば、朝ドラ「らんまん」がさらに楽しくなるのではないでしょうか?
最後まで読んで下さり、ありがとうございました。
興味ある方は、下記の記事も読んでくださいね。牧野博士がなぜ子供をたくさん欲しがったのか、理由を綴っています。
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