牧野猶(なお)。
牧野富太郎の最初の妻です。
朝ドラ「らんまん」のモデルである牧野富太郎は、今やすっかり有名ですね。
自叙伝や関連本も本屋に並んでいますが、やはり気になるのは二人の妻のうち、前妻の牧野猶さんのこと。なぜ年譜からも消され、その存在は隠されたのか。
そしてその生涯とは?
牧野猶、牧野富太郎の最初の妻、その生涯とは?
この記事では最初の妻について、紐解いていきます。
牧野富太郎自伝、角川ソフィア文庫
牧野富太郎の研究生活を支えたのが、寿衛子(壽衛)さん。献身的に支えた妻として、年表や自伝にもたびたび登場します。二番目の妻です。
しかし、前妻については出てきません。
猶さんは自叙伝には従妹として登場するだけ。いったいなぜでしょうか。
そしてどんな人物だったのでしょうか。
酒造業を営む高知の裕福な商家「岸屋」。牧野富太郎はそこで祖母の浪子さんに育てられました。
猶さんは子どもの頃から「岸屋」に同居していました。牧野富太郎の3歳年下。師範学校を卒業した才女、賢く、人柄もよかったようです。
資料はほとんど残っていないようですが、朝井まかて著『ボタニカ』(祥伝社)には、詳しく描かれていますね。
牧野猶、ひどく無口で、振袖もまるで似合っていない?
猶さんは、可愛らしいお女中として登場します。
慶応元年生まれの十歳で、背丈など富太郎より一尺は低い。だがお辞儀をする所作も堂に入って、古参の奥女中のごとき貫禄だ。本物の奥女中も二人続き、祖母様や富太郎の膝前にも干菓子と茶碗を置いて回る。
「お猶(なお)です。お政さんの娘の」
猶は富太郎の従妹である。両親を病で喪ったのち縁戚の許で養育されていたが、何年か前に祖母様が牧野家に引き取った。この家に手習の女師匠を招き、茶や花、琴、和歌などは祖母様が自ら教えている。富太郎は一緒に遊んだりしない。
三歳も違えば遊び方が違うし、だいいち、こなたは忙しい。日中は学問に野山、夜もまた学問をするので朝夕の膳の時しか顔を合わさないほどだ。しかも猶はひどく無口で、瞳は不気味なほど動かない。髪がやたらと多く眉が濃く、口の周りもうっすらと煙っている。そこへもってきて首が短く、桃色地に御所車を繚乱と描いた振袖はまるで合っていない。
こうして読むと、可愛らしいというだけで、残念ながら決して魅力的だとは思えませんね。
しかし、もっとも近くにいる存在は決まって猶だったのです。学問好きですから、その後、猶さんは高知県女子師範学校へ。
やがて二人は祝言をあげます。これは祖母が推し進めたもので、おそらく、富太郎はまったくその気がなかったのでしょう。
結婚したものの、ずっとほったらかしだったようですから。
小説には祖母様が苦言を呈する場面がありました。
「えいかげん、落ち着いてくれんかねえ」
「わしは落ち着いちょります。落ち着いて学問に励みゆうがです」
「いつまで放っちょくつもりで」
思い当たることがあるような、ないような、とぼけてまた香の物を口に放り込む。
「もう三年になろうというに富さんがいつまでもよそよそしいき、お猶は途方にくれちゅうがで」
富太郎は祝言の翌日から以前と変わることなく蔵で寝起きし、朝夕の膳の時だけ母屋の座敷に坐る。
「あの子の立場も、ちったあ考えちゃらんとね。可哀想に」
猶の部屋をいっこうに訪ねぬことを暗に指しているようだ。おそらく、未だ子を生していないことも含めて、猶の面目を祖母様は案じている。
「別に、存念があってのことやないですき。学問をしよったら時があっという間に過ぎて、気がついたら夜が明けちゅうだけで」
普通なら、こういうことはありえないでしょう。寝室は一度も共にしなかったのでしょうか。
それでも、造り酒屋の女将さんとして切り盛りし、優秀な番頭の井上和之助もそれを支えます。
富太郎は実家のことを気にせず、研究に没頭し続けます。
お猶さんは妻として役目を果たしますが、しかし、富太郎の研究熱心な性格から、岸屋は潰れてしまうのです。私財を惜しみなく注ぎ込み、研究を続け、そのせいで莫大な借金をつくり、家業はついに没落!
祖母様、とうとう岸屋を潰しました。六代目のわしが、喰い尽くしてしもうたがです。
牧野猶、牧野富太郎と離縁後、番頭と所帯を持つ
やがて猶さんが28歳のとき、別れることになります。
番頭の和之助に打ち明けるシーンがありました。
「時がないき、手短に言う。お猶とは離縁しようと思う」
「もっと早うにするべきやった。あれには夫婦らしいことを何もしてやらんと、苦労ばかりをかけた」
「あれは賢うて気甲斐性もある。そのくらいは、わしもわかっとる。が、夫婦にはどうにもならん組み合わせというものがあるき」
「なあ、和之助、あれと一緒にならんか」「本気で仰せですか」
「お前さえよかったら、お猶を頼む」
こうして富太郎は猶さんと離縁し、猶さんは和之助と所帯を持つのです。
牧野猶と和之介は岸屋をたたんで醤油屋を始めました
間もなく静岡県の焼津へと移ります。そして1950年に東京で亡くなったということです。
まとめ
和之助さんとは仲良く暮らしたのでしょう。岸屋時代はあまりにも不憫ではありますが、それも従妹という立場からでしょうか。
それこそが年譜から消された理由なのでしょうね、きっと。
参考資料:朝井まかて著「ボタニカ」(祥伝社)
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