笠置シヅ子の結婚相手、吉本興業の御曹司との出会いと別れ、出産とは?

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皆さま、こんにちは。
朝ドラ「ブギウギ」がおもしろいですね。
モデルは笠置シヅ子さん。
彼女は壮絶な人生を歩んでいますが、
とくに今回は結婚相手について注目してみました。
結婚相手とは、お笑いの吉本の御曹司ですが、入籍には至っていません。
いったい何があったのでしょうか。
詳しく見ていきまよう。

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笠置シヅ子の結婚相手、吉本興業の御曹司との出会い

笠置シヅ子の自伝『歌う自画像 私のブギウギ伝記』(宝島社)には、
吉本興業の女社長吉本せいの一人息子、吉本穎右(エイスケ)との出会いが詳しく書かれています。

「私がエイスケさんと初めて逢ったのは、忘れもしない昭和十八(一九四三)年六月二十一日のことでした。」

太陽館(名古屋)で一回目の舞台を済ませ楽屋にいたときのこと。
吉本興業の名古屋会計主任が楽屋に入ってきて、
ちょうどその後ろに美青年がモジモジしていたのです。

「笠置さん、実は今日、ぼんに頼まれて引き合わせに来ましたんや。ぼんはあんたのえらいファンだんね」

この美青年がエイスケさんだったというわけ。
どうやら彼のほうがファンだったんですね。

吉本穎右さんは笠置シヅ子より9歳年下。早稲田の学生でした。

結論を先に言うと、昭和22年(1947年)5月に24歳という若さで病没しています。
元々病弱で肺結核で亡くなっているのです。

その1か月後、娘の亀井エイ子さん(1947年6月生まれ)が生まれています。

なんという運命なのでしょうか。

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笠置シヅ子の結婚相手、吉本興業の御曹司との死別と出産

エイスケさんは母親に認めてもらうために早稲田大学を中退し、
吉本興業東京支社で働き始めます。
最初は、吉本せいさんが結婚に反対していたのですが、
次第に認めるようになっていました。

「私たちが具体的に相愛の仲になったのは、名古屋で知り合ってから一年半後の昭和十九(一九四四)年の暮でした。」

「終戦後エイスケさんは大阪へ帰り、そのまま向こうで死んだのですから、私たちが愛情生活を送ったのは十九年の暮から二十一年の春までの混沌期で、一日たりとも水入らずの家庭の味を経験していないのです。」

エイスケさんは、遺書を残していました。

そこには、通帳や印鑑、そして生まれてくる子供の名前があり、男の子なら吉本静男、女の子だったら、ヱイ子。
それが、エイ子さんなんですね。

笠置シヅ子は失意のどん底の中で、エイスケさんの浴衣を握りしめながらエイ子を出産します。

その後、吉本せいさんは、生まれたエイ子を養子に引き取りたいと申し出ます。
しかし、笠置シヅ子はそれを断りました。

自身の出生の過去と重ね合わせ、最終的な選択を下したのです。
彼女もまた非嫡出子でしたから。

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その後も、吉本家からの資金援助は受けなかったそうですし、一人娘を立派に育て上げていくのです。

さらにまた、シングルマザーとして子連れで出勤していたエピソードなども残っています。

そんな姿を見て周囲は応援していたと言いますね。

そしてついに大ヒット作「東京ブギウギ」が生まれるのです。

ほんとに波乱万丈の人生でしょう!

まとめ

今回は笠置シヅ子の実話、結婚相手だった吉本興業の御曹司との出会い、死別、そして出産について紹介しました。朝ドラではどう描かれるのか、楽しみです。

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